また、40オトコのボディビルコンテスト挑戦 からの抜粋、宮畑会長と石井さんのことを書いた記事。
2008年04月19日 
トレーニングセンターサンプレイ入会
  昭和57年4月。
 大学の入学とともにトレーニングセンターサンプレイのジムの門をたたく、その時にオヤジの会員証を発行してくれたのは大先生。
 あのころは秋葉原と御徒町のちょうど中間にある雑居ビルの4階にジムがあって、トレーニングをしていると、今と同じように電車の音がすぐ近くに聞こえた。
 しかし、あのころの電車の音というのは、本当に郷愁があって、今の電車の音とは少し違うような気がする。やっぱり、年かね、昔のあの若くて、いろんなことに夢があったころと現実の今の違いのような気がしている。
 あのころのジムとの関係。
 語りだすと長くなるが、やはり、ひとつの大きなターニングポイントは83年の関東学生オープン初出場かな、オヤジは何でも気合いを入れちゃうほうだから、その時に初出場ということもあって、今では当り前のようになっているけど、頭を丸坊主にして出場した。
そのころの選手には本当に珍しいことだった。
 その初出場は予選落ち。
 その次の日、ジムで会長に会ったら、ニコニコ笑いながら、「〇〇君、次、頭坊主にして出たら、ジム破門だよ」って、本当にあったかい言い方で言ってくれた、あの時からだろうか、あのジムと本当に付き合うようになったのは、、
 昔は楽しかった。
 土曜日は毎週、友人と飲み会。
 年末は大掃除の手伝い、そのあと、終電まで忘年会。
あのころは女性の会員も今より多かったし、そういったジムの会合とかにも積極的に出てくれていたから、本当に社交場でしたね。
宮畑会長と石井さん
 そして、昭和60年の大学4年生の暮れには、大学がジムに近いということもあって、ジムのトレーナーまでやっていました。
 まあ、教えるのは好きなほうだったので、いろんな方にアドバイスしていきました。
もう、そのころはジムで会長や石井さんのトレーニングパートナーをやっていましたので、理論は徹底的についていたし、石井さんの理論と感性に基づいた、高重量のトレーニング。
そして、会長の狂人的な精神力に基づく、仕上げとトレーニング。
 こういった理論を体感してきたので、トレーニング理論については、学校出てきているトレーナーよりは詳しいつもりでした。
 まして、あの石井さんと休憩時間とか論議していると、DNAの観点とか、そういった深い議論も戦わせていました。
 面白いのは、ある日、石井さんと2階の休憩室で休んでいた時に、テーブルの上にチューリップがあって、球根を割れば、チューリップは増える、それでは、DNAが疲れて、生命の存続に問題が出るでしょう、どうしてでしょうか?なんて議論をした記憶がある。
 そういえば、この間、NHKの爆笑問題の番組に石井さんが出ていたよね。
 見たかったけど、見逃してしまいました。
 あの人のすごさは集中力です、常人ではありません。
 これが、彼のすごいところです、集中力は精神力の結集です、だから、筋肉の力の発揮も常人ではないし、学問に対する極め方も常人ではないのでしょう。
 会長との思い出も一つ。
 実は会長はオヤジの仲人なんです、結婚式が始まり、嫁さんがお色直しで退席し、その間、嫁さんの友人がお祝いの歌を歌おうとしたときに、隣にいる会長に「会長、トイレに行きたいんだけど、こういうときどうしたらいいの?」って結婚式の大先輩に聞いてみた。
 そうしたら、会長の返事が、「オレもだ、一緒に行くか、」って言って、二人でトイレに行きました。
その時のビデオをあとで振り返ってみても、何とも、笑ってしまって、嫁さんの友人も「お二人ともいませんが、歌わせていただきます。」とことわって歌っていた。

 それと、トレーナー時代の思い出を一つ。
 突然、会長が「〇〇君、明日、9時半に出勤できる?」とのこと、これって、通常のオープンの30分前なんですよ、出勤してみると、「さあ、トレーニングしよう。」とトレーニングパートナー、もちろん、勤務時間は開始しているので、アルバイト中にトレーニング。
 その時は、会長はミスター日本の仕上げで、本当にトレーニングにも熱が入っていた。
そのトレーニングとは35kgのダンベルプレスを100回するというのが、会長の目標だった。
そして、きちっと、日本の試合前には108回できるように仕上げていく、あの人のすごさ。
いい思い出。
 そして、会長のすごさは、精神力の継続。
 この精神力の継続も常人ではありません、常人のできる回数、常人のやる重量、回数を超えるその根性と、それを合わせた精神力は、今までに誰も及ぶ人はいないでしょう、石井さんの重量やトレーニングは似た人はいますが、会長のトレーニング方法をできる人間は、未だかつて見たことはありません。
でも、この間、石井さんと話したら、オヤジが再度、コンテストに出ると伝えたら、「あの会長とのトレーニングをした〇〇君だから、大丈夫だよ。」ってあの石井さんも言ってくれました。
 やはり、あの会長のトレーニングのDNAが脈々と流れていると思いますよ、絶対に根性、根性、という状況でなければ、トレーニングした気にならない。
そして、重量と回数というトレーニングの基本をあの頃、身をもって覚えたし、そのトレーニングで今持っている筋力の何かを超えないと、バルクは増えない。
また、40オトコのボディビルコンテスト挑戦 からの抜粋。石井直方先生との思い出を書いた記事
2007年04月30日
石井直方先生との思い出
 さて、izumiさんからもらったYou-Tubeのアドレスで見た石井さんのゲストのビデオ、本当に懐かしかった。
返信のコメントにも書きましたが、あの時は大森で行われた昭和56年の実業団のゲストポーズのときのものです。懐かしいJBBCの表示がありますよね。
 石井さんはその前年の55年の実業団で完全に絞込み、大変身を遂げ、無印のような状況で優勝したのです、その勢いでミスター日本でも、最後のトールマンクラス優勝、そして、オーバーオールでも一挙に朝生さんの初優勝の第2位に飛び込み、次の年の56年のミスター日本の大本命になったのです。

その仕上がりをうかがわせる実業団のゲストポーズで、56年のミスター日本で本命のまま優勝するかを占う、ゲストポーズと言うことで、皆の注目を集めたのです、そして、あの見事な仕上がりでした。
石井さんの有名なポーズの中にバキュームしながら、斜めに構えて、両手を曲げながら上に掲げるというポーズがあります、実はオヤジもあの時見に行っていたのですが、あとで現像してみると、皆がそのポーズを狙っていて、そのフラッシュで写真が真っ白になっていました。
オヤジのことを書きますと、あの時はまだ、高校3年生で、横浜のスカイジムという、今はない横浜のジムでトレーニングしていた頃ですね、サンプレイは大学に入ったら行きたいという夢のジムで、そのときは石井さんや宮畑さんなんて人は雲上人でした。
ミスターユニバース
 そのあと、石井さんとトレーニングパートナーを組み、そして、日本で行った86年の日本で行われたユニバースでは、石井さんのことをハッパかけトレーニングを建て直し、そんな関係から、パンプアップパートーナーをしてくれと関係者しか入れない、舞台裏に連れていかれ、パンプアップを手伝い。
 実は、今思い出すと、その時に見たフランシス・ベンファットは信じられない逆三角の上に胸が厚い、という強い印象がありました。

また、82年のアジアの時は予選で小山さんに敗れると言う波乱があり、その負けを巻き返すために、アジアでは前年の日本より絞り込んだ体重で出て(この情報は会長からだっけな?本人からだったか忘れた、とにかく、1kg以上絞ったということでしたよ。確か。)、そして、中野サンプラザでイラクのバルキーな選手に勝って、優勝した時、うれし泣きをした時には本当に感動しました。

しかし、その後の中野サンプラザはいろいろあったことを記憶しています、あの頃からちょっと変わってしまった。
 その数年後、サンプレイの日本の打ち上げの時に小山、石井という2回づつミスター日本を取った天才たちと一緒に飲むことになり、オヤジはそのころカメラでコンテストを撮るのが好きだったので、無理やり二人を脱がせ、デブの石井、ガリの小山のダブルバイセップスの写真を撮った記憶があります。
どこかにまだあるはずだ。
 先日、久々に忙しい、忙しい、石井さんに会ったが、今はガリガリの石井さんとなっている。
でも、あの頃の笑顔は変わっていなかった。
まだ、まだ、いろいろ話はある、会長とのこと、結婚の時の話、トレーニングの時。
良い思い出である。
 
 
 
       
  
  
  
  

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